2009年4月 1日
プログラマ35歳定年説
今日は35歳最後の日である。そう、35歳定年説における定年の日。人生70歳の折り返し地点。
明日からは、コンピューターを動かすためのプログラムを一切書かず、若いプログラマを動かすための作業手順を考えなければならない。
法人化も視野に入れて、人的リソースの拡充に努めていこう。
そう決意を新たにする、4月1日でした。
2008年12月24日
作戦B
作戦Bという言葉に定義があるのかどうか知らないが、ココではメインの「作戦A」が失敗した場合に、次に採る作戦ということにしておく。
今までの人生、作戦通りだったと思っているのだが、よくよく考えて見ると作戦Bを選択することの連続だったと思う。
そもそも高校受験からして「2番目」の選択である。大学受験も新卒採用も「入れたところ」。
今やっている個人事業主も、「就職するのが面倒」という理由が大きなファクターだったりする。
それでも、まあ、満足している。
だが、現在35歳。これからの人生の作戦Bが全く描けていない。
一生エンジニアでいたいというのが作戦Aなのだが、それが叶わなかった場合の作戦Bが思いつかない。
いや、作戦Aは、ボロ儲けして早期引退というプランで、作戦Bが一生エンジニアってことにしておこうか。もちろん作戦Cは存在しない。
これなら予定通りの人生が歩めそうだ(w
人生70年の半分を過ぎた年末のマトメでした。
2008年12月10日
冬ボ
長いことボーナスと言うものを貰っていない。
最後の社会人は年棒制であり、年棒の14分の1が月給で、夏季冬季の割り増し額でもあった。これもボーナスと言えばボーナスなのだが、ボーナス的金額ではない。
その前は社会人2年目の冬ボの前に辞めたので、2年目の夏ボが最後である。就職氷河期で中小企業の2年目の夏ボなど微々たる額で、ワーイ、ボーナスだ!と散在できるほどの金額でもないが、キッチリ散在した。
そんなことを思っていて気づいたが、3桁ズガーンと口座に振り込まれた経験が無い。
(逆に、3桁ズガーンと振り込んだのはフィットの購入の際に1回だけ経験している。)
ここで、「ボーナスがもらえる社会人はイイなぁ」という展開になってはいけない。
ボーナス3桁ズガーンと払いまくる会社のシャチョーになりたいなぁ!
・・・イヤ、ウソです。人を雇う気はさらさらありません。
コンピューターを働かせて一人で儲けるのがボクの夢です。
2007年4月30日
ベンチャー転職→倒産
A社(仮名)はベンチャーとはいえパッケージ販売で安定収入があったりして安定してるような感じの会社。
しかし、入ってから知ったのだが、倒れかけて人員総入れ替えぐらいの勢いでリセットされた後だったらしい。
それはともかく、最初の仕事はMFC(VC++5.0)だった。ボクは「バリバリC言語」だったが、GUIに弱いし、オブジェクト指向も弱かった。当初、MFCは辛かった。ほとんど習作状態で作っていた。それでもいい勉強にはなった。
A社では古いSUNのマシンがWeb,メールサーバとなっており、部長が直々に設定して運用していた。インターネット接続はクラスCを持っていて、全クライアントPCにグローバルアドレスが振られており、しかもパケットフィルタを設定していなかった。もちろん、メールサーバーは第三者中継可能だ。すんごい時代だった。
ボクはほとんど勝手に、余剰PC(古いSUNより高速なPC)にLinuxをインストールし、Webサーバやメールサーバを移行していった。ルータ(RT100i)のパケットフィルタも設定した。
その後、ケータイ向けサイトを手がける。DB初挑戦でOracle、Java初挑戦でJavaServletと、すんごいことになっていたが、そのときが人生で一番スキルアップしたような気がする。
この会社では英語のドキュメントを読まされたり、JavaとかVC++とかPerlとかASPとかOracleとかいろいろやらされて、勉強になった。と思う。どんな言語でも仕事できまっせ、と言えるぐらいに成長した。
しかし、A社は倒産しそうになる。倒産確実の頃、どんどん社員が辞めていく。ファイナンス的に倒産は確実のようだ。しかし仕事は存在する。(仕事があるのに倒産しそうになる理由がボクには分からないのだが)
倒産したときに、A社に仕事を頼んでいた会社は困るであろうことが予想された。大口の仕事はできないが、こまごまとした仕事は請けられるだろうと思った。
社内で、立ち話レベルで、別会社作って継続しちゃえ! と共謀していた。それが先に出てきた営業さん。2人で退社してB社(仮名)を設立した。そして、うまいことA社の外注として目ぼしい仕事に着手して、うまいこと取引先に顔を覚えてもらい、ついにA社が倒産した。
引き継いだ仕事の中に、某有名外資系スポーツアパレルメーカーの仕事があった。A社が開発した発注業務システムの保守である。
この仕事は継続収入源としてオイシかった。取引先のネームバリューとしてもオイシイ。
去年の春までは、その仕事がメインの収入だった。しかし、本国トップダウンでのERPパッケージ導入方針に伴い、既存システムを捨てることになり、B社も捨てられてしまった。本国指令じゃ打つ手が無い。
その時点でB社の将来性は低くなる。3年やっていて、メインの収入源がそれだけだったからだ。他に柱が育っていない。
それでも何とかなるかなぁと思って、ダラダラと手を打たずに今に至ってしまった。甘かった。
派遣で常駐仕事をすれば食うには困らないだろうと思う。そして、そんな仕事はこのWeb2.0の時代にあっては、ボクがサラッと検索すればいくらでもある。
ステップアップするなら、2007年問題の今なら大企業に華麗に転職するのが一番オイシイ道だろうと思う。弱めの学歴を補完する為に高度情報処理試験も受けてきた。そして、転職は35歳までがひとつの区切りだろうと思う。それにはもうあと1年しかない。
そもそもボクはこの「超・売り手市場」になるのを大学生時代から待っていたのだ。80:20の法則でいうと、今まではどうでもいい80%の時代であり、今年度は最適化すべき20%の時代である。34年に対して1年だから、3%ぐらいの最適化ポイントかもしれない。とにかく今年の行動がボクの一生を決めてしまうのではないかという、一般人なら受験生時代のような気分でいるのがボクの現状だ。日経の1面に、2007年問題ネタ(売り手市場ネタ・正社員増加ネタ)が登場するたびに焦らされるボクがいる。
ということで、今の仕事は頃合を見計らってフェードアウトさせようという気満々のボクを、誰か青田買いしませんか?? 条件は馬場乗換+20分ぐらいまでの勤務地でよろしく(w
2007年4月25日
就職→転職
最初の会社はまあ普通の会社を目指している会社であり、普通に新卒採用して3ヶ月の新人教育して、その後はOJTというごく普通の流れだった。
だが、最初に入れられたプロジェクトが普通じゃない。すでに終わっていなければならないはずの、デスマーチプロジェクトだった。
過去の遺産を流用するため、アセンブラを使い続けていた。そして実機が1台しかなく、テスト可能なのも1人だけ。
遅れているので、人海戦術ということで人だけは大量にいる。机上デバッグだけしかしてないアセンブラソースが増えていく。人が多いのでモジュール間の整合性が取れていない状態で、1人がデバッグしている。
実機が1台というのがボトルネックだ。これを改善する素晴らしい案が実行された。それは、「2交代制」。
AM9時〜PM9時 の人と、PM9時〜AM9時 の人とで交代して利用すれば効率2倍!
デバッグしている人はスゴイ人で、バグを発見すると16進ダンプ上でプログラムを書いてしまう。しかし、これが問題だ。デバッグした内容をソースに反映させるのを忘れてしまうことが発生するのだ。これの再発見に時間が掛かる。それを排除するためにはどうしたらよいか。などと、外野の偉い人は議論していた。
そんな状況を、適当なアセンブラソースを書きながら1年半ぐらい傍観していた。
バグ曲線の捏造とかもしてたな。適当に揺らぎを入れたつもりなのに、「曲線がキレイ過ぎる!」と怒られたりしながら。
1年半ぐらいして、プロジェクトを変えてくれー! と言ったら変えてくれた。次は次世代携帯電話(の基地局(の制御装置))のプロジェクトだった。
無理に変えてもらったので、作業場所が遠かった。新横浜になってしまった。プロジェクトがさらに進むと横須賀になってしまう恐れもある。
巨大プロジェクトの末端で、成長しないまま「華麗に転職」の機会を失っていくのだろうなという危機感だけが増幅されていった。
それと、この会社、組合によると、30歳前後の給料が世間一般より低いらしい。
ということで、2年経たずにあっさり転職。(まだ「華麗に転職」ではない)
次も、希望は「ソフト関係で、高田馬場か西武新宿付近」だった。リクルートエイブリック(現リクルートエージェント)で探してみた。
最初はメジャーどころに挑戦してみたくなる。Aplixもあったが、エージェントに「そこはスゴイ人しか入れないよ」と言われてしまった。今思えば、「いや、私もスゴイんですが!」と言っておけばよかった。
一方、ACCESSは受けさせてもらえた。似たような2社だけれども、そんなもんなんですかね。
しかし、ACCESSは失敗した。最初に行ったのがACCESSであり、なぜか面接と試験を勘違いしていて面接の傾向と対策をしていない状態で面接を受けて撃沈した。「長所は?」と聞かれて考え込んでいたら、「君ね、面接というのはね・・・」と説教モードになってしまった。貴重なお時間をとらせていただいてすいませんでした。
場所が遠いからまあいいや、とかも思っていて油断しすぎていた。
当時は実家に住んでいて、高田馬場まで出るだけで1時間以上かかっていた。一人暮らしをして(家賃を払って炊事洗濯の面倒をして)勤務地自由度を上げるよりも、実家のまま勤務地を近くしたほうが、幸せな人生になるだろうと考えていた。
心を入れ替えて、本命どおり、社名を気にせず高田馬場徒歩5分以内で検索しなおした。実際にはそんな検索条件を指定できないので目で探すことになる。不動産の検索みたいに「駅で検索」とか「路線で検索」とかの機能も欲しいと思った。(実際に、アンケートにそう書いた記憶がある。)
で、めでたく高田馬場徒歩5分のベンチャー企業に入社した。
眠いのでまた次回に続く。
2007年4月23日
中学生から就職ぐらいまで
ボクは中学生の頃から頑張りやさんではなかった。
「もうちょっと頑張れば、地域トップの公立高校に」という程度の成績だった。そこで頑張って地域トップの高校に行くと、2番目の高校よりも遠くなってしまう。しかも男子校であり、嫌いなプールがある。頑張るインセンティブが全く無い。
ということで2番目の高校(共学・プールなし)に入学した。
高校時代も頑張ってなかった。六大学未満の大学の優劣がどうのこうのというレベルで頑張っても最適化効果が無いと思ったからだ。当時からすでに、ソフトウェアか、突き進んで電子系に行こうと思っていたので、大学名からして理系であることが分かる大学なら何でもいいかなと思っていた。三流総合大学名よりは分かりやすい履歴書が出来上がるだろう。
そんでもって、略すと「なんちゃって東工大」になる某私立大学の電子工学科に進んだ。「ハードも分かる」をアピールポイントにしたかったということになっているが、実は情報工学科の方が人気で、偏差値が高かったから。というのが本当の理由である。
しかし、合格できたのはまぐれだったと思う。センター入試が始まった頃で、私立のセンター利用も始まったばかりだった。センター試験の受験会場で友達に会ったとき、「イシハラも国立受けるんだ」と言われた。「いや、そんなの無理だよ」と答えると、「え、じゃあ何でセンター試験受けるの??」と真顔で聞き返された。試験制度を知らずに受験戦争に立ち向かっているのかお前は。と思った。
ボクは私立大学でもセンター利用の入学試験を行っており、知名度の低さから穴場であることを知っていた。
それと、基本的に興味があることしか勉強しないので、覚えたことは確実に覚えている。定期テストで一夜漬けして成績が良くなり、頭が良くなったと勘違いしているヤツラとは違う。そんなボクは、出題傾向が基本に忠実であるセンター試験において、高めの成績が出ることを知っていた。
定期テストの成績が悪いので、担任は現役合格は無理と思っていたらしい。ボクが合格したことに驚いていた様子だった。
高校卒業/大学入学の年はバブル崩壊の年である。就職がまだ先で良かったと心底思っていた。4年もすれば景気も回復するだろうと。
しかし、一向に景気が回復しない。回復どころか、悪くなる一方だ。
大学は大卒フラグを立てるためだけに行くと決めていたので、ギリギリ単位が取れる程度に勉強していた。Aが付くと、「もったいないことしたな」と本気で思った。AかDしかつけないと言われている一般教養の法学でCを取ったときは嬉しかった。
そんな成績だったことと、景気が悪いので、いわゆる一流企業は無理だろうと思った。でも、在学中に情報処理1種を取ったし、まあどっか拾ってくれるところはあるだろうと思っていた。
どっかで拾ってもらって、景気回復局面で華麗に転職するのがいいよなぁと、気楽に考えていた。いまがむしゃらに頑張ったところでたいした違いは無い。変にいいポジションに収まっちゃうとそれを維持するのに苦労しそうな気がしていた。景気は必ず回復するし、ソフトウェアの重要性はますます増していくだろうし、ハードも分かる技術者ならなおさら貴重になるんじゃね? と、思っていた。
で、就職活動をマジメにやっていなかったら、大学の就職科から呼び出しを食らった。
就職科で「ソフト関係で、高田馬場か西武新宿付近(乗り換えは面倒!)」と言ったら、希望通りのがあった。
で、難なく内定が出た。就職してからの話はまた明日。
2007年4月22日
個人事業主になりました。
「用賀に用が」とか書いていた仕事が終わった5月末から、水道橋ネタ(12月)までの 6,7,8,9,10,11月は働いていなかった。
当然、給料は出ずに貯金を取り崩す日々が続く。それが可能なのも半年限りだ。ちょうど底を打ちそうな11月、車検が来る。車検は必要な整備を先送りした上、支払いもクレジットカードで先送りした。
営業さんが仕事を持ってこないので、自分で探して個人事業主になろうと思った。「全部捨てて逃げるのか?」と言われれば、「ハイそうです。」と答えるしかない。しかし全部というのは、給与未払い分相当の貸付金もチャラにするということだ。なんて優しい俺。
それが屋号について考えていた頃である。
で、知り合いに「なんか仕事ない?」とメールを書いてみた。このブログによくコメントしてくれる川崎個人事業主さんだ。
そしたら某移動体通信キャリア系の仕事と、某HDDレコ(企画のエライ人がアニヲタで有名なアレ)の仕事があるという。「青梅線の奥地よりは溜池だよな」と思い、「溜池方面で」と返事をしてみた。(某HDDレコは某先輩とカブルので小っ恥ずかしいというのもあった。)
その翌日。営業さんから仕事の電話が来た。○| ̄|_
で、しょうがなく水道橋に通うことにした。もちろん、条件が悪かったら逃げるつもりだったが、営業さんも働いて2人月もらって分配という話だったので、まあそれならいいかと思った。最初は常駐だが、後で持ち帰りという話しだし。
しかし、失敗だった。ものすごい勢いで「未払い給料払え!」と言って、「無理なら断る!」とか暴れればよかった。
働きはじめても支払いは当然のごとく翌々末であり、「家計繰り」が続かない。車検代をリボチェンジしつつ、子供のための定期預金まで取り崩しつつ、何とかしのいだ。
しかし、営業さんが約束していた「一緒に働く」のスタートが遅れ、いつまで経っても現在に至ってもサラリーマン給与並の金しかくれない。しかも社会保険に未加入なので国民年金やら国民健康保険は自腹だ。そのうえ持ち帰り仕事になってない。電車賃も自腹。通っても仕事の話をしない日があったりすると本当に頭にくる。ひどいときは朝から晩までボク一人の場合があった。一人でいると暖房の能力が足りず、風邪をひいてしまう。
ギリギリの生活を続けていて、車検代はリボだし、車検時に必要だったプラグ交換とエアクリ交換とブレーキパッド交換をケチっていたのでそれもどうにかしたい。アンダーカバーが外れたまんまなので、それもどうにかしたい。そして5月には自動車税の請求が来る。自動車保険の更新も来る。住民税の控除額が減ったことを知らずに額面給与を設定したために住民税が上がり、それに連動して国民健康保険や保育料まで上がってしまう失態の影響が出始めるのも今月からだ。
とか考えていたら何もかもイヤになった。
「イヤだー」と発言するのは電話代が掛かるので、ストライキしてみた。そのうち営業さんから電話が掛かってくるだろう。
電話が掛かってくるまでに3日掛かった。で、常駐の上に支払いが少ないので辞めますと言って電話をブチっと切った。話していると丸め込まれそうだと思ったからだ。
それから再度電話が来るまで時間が掛かった。この間は不安だった。次のアクション(求職活動)を起こすキッカケがつかめない。しかし、ここはガマンだ。
1週間連絡が無かったら「辞めてやるー」が受理されたものとする、と思っていたのだが、ちょうど1週間後に電話が来た。みんな大体似たようなことを考えるものだな。そして、電話じゃアレだからちゃんと会って話をしようと言われて2日後、会って話をした。予想外に時間が掛かってしまった。
とりあえず大人の対応で、この仕事は続けるが、個人事業主としてジョブごとに「何割」とか「いくら」とか決めて契約しましょうという話にした。
何割にするかは勝負どころだ。営業さんも「友達から借金してて」とか泣き言を言うが、そこで情に流されてはいけない。ボクからも借金してるようなもんですよ!
ってことでかなり強気に勝負した。というか勝負に負けて退職の方を希望してるんですが。どっちに転んでも技術者のボクが圧倒的に有利であり、強気の割合のまま商談が成立した。
というわけで、今月から個人事業主です。
今後はデスマーチ時に再度ストライキを起こせるよう、契約条件の不備を探すのがメインの仕事になります。人間、カネが無いと悪者になれるものですね。ここで、デスマーチが発生することが想定の範囲内なのがポイントです。
営業さんの名誉のために付け加えておくと、仕事を獲得するためにものすごい努力をしていたし、交際費(飲み屋代)の支払い負担も大きかったとのことです。
というのは、全部フィクションです。ということにしておこう。
2007年1月 5日
寝正月
正月は主に寝ていた。
人生の目標は、「可処分時間を増やすこと」であることは以前に書いたかと思う。可処分時間を増やすために必要なだけのカネが有ればいい。
増えた可処分時間をどう使うか。カネが有れば遊べるが、無ければ遊べない。遊ぶためにもっと働いて遊べる状態にするのが良いだろうか。しかし、働いて遊ぶ時間が無くなったら意味が無い。
じゃ、寝てれば良いんじゃね。ということで寝る。
テレビを見るのは電気代だけで可能なので、時間の消費としてはリーズナブルである。しかし、CMが多い。CMはカネを使ってくれというメッセージしか発信しない。CM以外は、CMを見せるためのツナギであり、やはりメインはCMである。テレビを見ている分には電気代しか消費しないが、その結果資本主義に魂を売っていることになる。
そんなわけでテレビを見るのも好きじゃない。
なんだかんだ言って、ネットサーフィン(主に2ちゃんねる)してダラダラ見て過ごしてしまうのだが、テレビを見てダラダラ過ごすよりは有意義かなと思う。下らなさと言う点ではどちらも似たようなものだろう。今まで知らなかった知識が得られる確率としても似たようなものだと思うが、情報操作度の低さでネットサーフィン(主に2ちゃんねる)のほうが有用かも。と思うのである。
普段もテレビをあまり見ない。家人がテレビをつけていると目に入ってしまうが、一人の場合は自分でONにすることはめったに無い。最近仕事で外に出るようになってからは特に、HDDレコの未読処理すらしなくなった。
たまに目に付いた映画を録画予約してみたりもするが、溜まりっぱなしである。可処分時間の消費先はかなりあるだろう。
HDDレコを買った直後は見る番組数が増えたが、「未読処理」をしている感覚を覚えてからは「お気に入り」の番組を意図的に減らすようになった。それでも未読は溜まる一方である。
普段見れない時間帯の番組を保存する場合、1週間の生活サイクルで未読処理が終わらないのであれば、それは一生処理できないと思われる。それなのに何故、人は録画するのだろうか。名作なら再放送されるだろうし、駄作なら見てもムダだ。
正月番組がつまらないと言う話があるが、本当に通常の放送と比べてつまらないのだろうか。ボクから見れば通常の放送もつまらないのだが。
通常の放送は生活に組み込まれていて、この時間はこの番組を見る、とかの俺ルールを各自持っているものと思う。その俺ルールの中で、意図どおりの方向性のコンテンツが提供され、安心して消費できる。逆に言うと、「この時間は見ない」という俺ルールもあるものと思う。
「この時間は見ない」が通用しない特殊タイムゾーンの正月において、無理やりテレビを見ようとするからつまらないと思うのではないか。無理やり見て、気分じゃないコンテンツが提供される。そりゃ、面白くない。
気分に合致させようと、見慣れた番組を見ようとすると総集編だったりする。2度見ても面白くない。総集編ってのは人気番組に乗り遅れた人が次クールの予習のために見るものだ。
と、いろいろ考えていたら普段テレビに依存している人ほど、正月番組がつまらないのではないだろうかと思った。
2006年8月 8日
趣味と可処分所得
人生の満足感をアップさせるには、趣味を厳選しなければならない。
趣味というものは、とかく背伸びしがちである。たとえば、クルマが趣味であったとしたら、今乗っているクルマの1.5〜2倍ぐらいの値段のクルマを常に欲しいと思ってしまうのが一般的な思考回路なのではないだろうか。
そうすると可処分所得はすべてそこにつぎ込まれることになり、いつまで経っても満足できない。2倍の値段のクルマに乗ったら満足しそうな気がするが、それは幻想だ。かならず次の2倍構想が待っている。2000万円ぐらいまでは普通に売っている。更に上もあり、複数台所有とか買い替え間隔短縮化などのコースもある。
今の分野で上を目指すのではなく、違う分野に手を出すという考えもある。しかしそれは大きな罠だ。分野ごとに高額商品が必ずあり、手を出した分野それぞれに対して欲求不満が渦巻くことになる。手を出すときは、それ系の専門店に行ってみるとよい。「この棚、全部ください」と言える自信が無ければ、手を出さないほうが良い。
ということで、趣味は厳選しなければならない。
趣味がちょっとでも収入を発生させる、あるいは支出を低減させる効果のあるものであれば、のめり込んでも家計に悪影響を出さない。そんな趣味を増やしたいと思っている。
2006年8月 7日
人生の目標
八王子の山奥の大学に通っていたボクは、ひとつの目標を持っていた。それは、「通勤がラクであること。」
具体的に言うと、次のような条件が必要だ。
・乗り換えなし
・転勤なし
・駅から傘をささずに行ける。
前半2つは軽くクリアできる。しかし、「転勤なし」かつ「駅から傘無し」は結構難しい。駅直結なカイシャは、転勤がありそうな気がする。それと、さらに押し進めると自宅も駅直結が理想である。駅直結マンション。小金持ちにならないと実現できない。
現在は、この難しいところをSOHOという変則ワザでクリアした。
もうひとつ、究極の目標は「時間持ち」になること。一般的な目標であるところの「お金持ち」は、死ぬほど働けばなんとかなるんじゃないかと思う。しかし死ぬほど働いて死んでしまったら意味がない。目標のベクトルをどこへ向けたら良いかを考え続けた結果たどり着いた答えが「時間持ち」である。
可処分所得が多いのがよしとする価値観ではなく、可処分時間が多いのがよしとするという価値観である。
この価値観になると、そこそこ収入があれば満足してしまう。
最近は自宅でラクラクできる仕事が減ってしまい、ちょっとピンチなのであるが、イザとなれば常駐モードで稼いでくればいいかなと楽観している。
あと、稼ぎすぎると保育料も上がってしまうので、あまり稼ぎたくないという気持ちもある。
2006年7月17日
もはや戦前
50年前の今日、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した。しかし、今となっては「もはや戦前」なのではないだろか。
まあ、戦前が戦争の何年前までという定義はないから、歴史が繰り返すとしたら、平時は何時でも戦前である。
2006年7月15日
ゼロ金利解除
ついにこの日が来たか。僕が生きている間はずーとデフレなんじゃないかと思っていたが、やはり歴史は繰り返すのか。バブルを実感できなかったボクの世代がジジイになるころに、またバブルがやってくるのかもしれない。
景気上昇の恩恵は、まず大企業に来て、末端のサラリーマンにやってくるのは遅れる。大企業に転職するなら今だ! とか思う。
2006年4月 4日
社会人10周年
大学を卒業して10年経っちゃった。
バブル崩壊後で景気下り坂で求人数激減中の当時、就職活動で頑張ってもムダだと思って頑張らなかった。何もしていなかったら就職課に呼び出された。そこで紹介されたところで就職した。3社ぐらいしか面接に行っていないと思う。
ああ、あと3年も待てば状況が変わるのかなぁとかも思っていたが、実際に求人数が増加するのには10年かかった。今、就活の身だったらどうしているだろうか。同じく頑張らないかもな。
就職してから退職金を貰うまでの約40年間で、会社がどう変化しているのか予想できない。予想できないからどこ入っても一緒でしょ。というキモチが当時あった。そして今も同じように考えている。
2005年12月28日
今年の目標実現実績と来年の目標設定
今年の目標はコチラ
1つ目は全然ダメ。現状維持にとどまった。世間一般の同業に比べたら遥かに低いと思うが、勤務時間も遥かに短い。時給換算なら高いかもしれない。
2つ目は達成。ESとNW。
来年の目標は、春の情報処理試験テクニカルエンジニア(情報セキュリティ)に合格する(#1)こと。秋は、どうしようか。「論文モノ」と「情報システム利用側」しか残っていない。ここはあえて論文モノに挑戦すべきか。技術者として真正面なのはアプリケーションエンジニアだと思うが、資格の人気度からしてプロジェクトマネージャに挑戦するのも良いかもしれない。
突然、宅建も受けてみたいとか思ってしまったのだが、これは情報処理の秋期試験と同日に行われるらしい。果たしてプロジェクトマネージャと宅建はどっちが難しいだろうか。
とりあえず目標設定としては、「秋もなんか受験して合格する」(#2)としておこう。
収入に関して、給料はなるようにしかならないので、アフィリエイトで儲けよう。雑収入の限界(20万円)を超えないかビクビクするぐらい儲けたい(#3)ですね。
2005年6月11日
家計簿
最近、自分の小遣い帳というものを書いていない。家計簿は妻がExcelで適当に書いているようだが、ボクはそれをチェックしていない。
昔はマメに書いていた。1円単位で漏れなく、という訳ではないが、把握できる限り書いて、不明金は不明金としてメモしていた。
最初のカイシャを辞めた後だったと思うが、マジで貯金が底を突いた事があった。多分、次のカイシャで働き始めたものの、最初の給料が入っていないときだったと思う。このままではみかか代の引き落としの後、クレジットカードの引き落としに失敗する。
クレジットカードの失敗はなんとしてでも避けなければならない。だが、ここで親に頼るのは社会人として情け無い。そこでみかか代の引き落とし前に現金を引き出し、みかかの引き落としを失敗させた後で現金を銀行に戻し、クレジットカードの引き落としだけは成功させた。
そして思ったのは、小遣い帳をつけていても金は貯まらないということだ。ボクの場合、小遣い帳を眺めていると将来の収入を想像しつつ行動してしまう。結果的に残高がギリギリになってしまう。
その後、結婚を目指して貯めるようになった。パソコン関連ブツを買わなくなっただけなのだが、1年ぐらいで100万ぐらい貯まってしまった。いままでそんなに出費していたのか!!
今思うと MMX Pentium 200MHz と、それ用のマザボを 10万超で買ってたりしていたのが馬鹿馬鹿しく思う。こないだ買ったファイルサーバと同じ値段だよ_| ̄|○
一度買わない生活をすると、耐性がついてくるような気がする。家電をそろえて、家電の値段の感覚でPC関連ブツの値段を見ると高いと思ってしまうというのもある。今は、あのころよりエンゲル係数の高い生活を送っている。
2005年3月24日
公示価格2005
国土交通省が公示地価を発表した。
ウチの近辺はまだ下落している。しかし、小幅なので日経によると「ほぼ横ばい」の地点として地図に印がしてある。来年は真の横ばいになるかな。
しかしここで根負けして家を買ってはいけない。現在はバブル(+)の反動(-)の反動(+)と思う。将来、人口が減って下げ基調になるのは明らかで、それと次の反動(-)が重なってすんごいことになると予想する。というか、そう願いたい。
どちらにしろ2極化の時代である。しかし、2極化の境目はどこになるのか。なんとなく思うところは、山手線ターミナル駅から10分が分岐点ではないかと思う。現状の地価を維持できるのはそのラインと。ウチの近辺は一時的に横ばいで頑張るものの、10年単位では下がっていく思う。というか、そう願いたい。
2005年3月 5日
住宅ローン
買わないと言っているが、本音は買いたいのである。しかし、「節税スペシャルな源泉徴収票」ではローンの審査が通らないと思っているので、買わない理由を作っている。
しかし、先のマンション屋のセールスの電話から、「ひょっとしてひょっとすると借りれるのか?」と思い、別のマンション屋に行って見た。個人的にはお気に入りの物件である。都心からの距離とか駅からの距離とか(妥協できるギリギリ=ボクにとってバリューな存在)、南側の環境変化リスクの少なさとか(絶対条件)。
しかし、結論は、マンション屋的に表現すると、「自己資金が用意出来るのであれば可能」と。
それって無理ってことやん。
それと、クルマ屋で値引き値引きと言うとワンランク下の車とか中古を勧められたりするが、新築マンション屋でも、レインズIP型を叩いて中古を照会して紹介しだしたりする。話の進め方を間違った。まあどうせ借りれないんだが。
そんなわけで、不動産暴落を期待して生きることにする。
2005年2月26日
ボクが家を購入しない理論
初めてマンションのモデルルームに行ったのは2002年の正月である。もう3年以上経ってしまった。でも買ってない。
家賃を払うよりローンの返済のほうがトク、という話がある。確かに、現時点で同等仕様の物件で比較すると、ローンの返済のほうが圧倒的に少ない。しかし、将来的にはどうだろうか。少子化で必ず土地は余る。賃貸の家賃は確実に下がっていくと思う。一方、ローン返済額は変わらない。変動金利ならほぼ確実に上がる。それと、持ち家は後に残るというが、マンションならローンを払い終わった頃には価値がゼロに等しくなる。建て替えないと住めない、という事態になったら、ローン返済も家賃も同じだ。
そうは思っていても、不動産屋に洗脳されると、家賃を払い続けるというドブに金を捨てるような行為に疑問を抱くようになると思う。今回はそれを否定する「理論」を書こう思う。
現在、ボクは駐車上代込みで11万円の家賃を払っている。年間131万円である。
分かりやすい話として、もし、マンションの価格が年間131万円下がっているなら、今買っても来年買っても、生涯住居費は変わらなくなる。しかし、これは持ち家寄りの評価である。マンションなら管理費・修繕積立費が必要だし、駐車場代もかかる。それを引いた値段、例えばそれが3万弱で、年間31万円なら、100万円下がっていれば生涯住居費は変わらないということ。
それでもまだ持ち家寄りだ。ローンの返済は、返済当初は殆どが利子の支払いで、元本が減らない。低金利なので「殆ど」というのは語弊があるが、半分ぐらいは利子である。35年ローンで金利が2%なら、最初の1年の元本充当分は支払額の半分ぐらいである。すると、年間50万ぐらいしか返済していないことになる。ちなみに2%という金利も持ち家寄りの設定である。史上最強の住宅ローンであるフラット35でも、2%台後半だ。変動金利なら2%より低いが、将来は上がるはずだ。
ということで、マンションの価格が50万円ぐらい下がっているなら、今買っても来年買っても、生涯住居費は変わらない、というのがボクの持論である。それよりも下がっているなら、むしろ家賃を払いつつ不動産の動向を見続けている方がトクである。ということで、あの工場は売却されないだろうか、あの畑はジジイが死んで相続税を物納して宅地にならないだろうか、などと考えながら家賃を払い続けているボクである。
但し書き↓
都心は下げ止まっている。というかむしろ上昇している。買えるなら買ったほうがいいかも。
都心の周りも下げ止まっている。しかしウチの近辺まで来るとまだ下がっている。なので待ってもいいかと思う。
今買うと、家賃と同じ返済額で広い住まいに住める。しかし、ウチは子供が小さいので、広くてもメリットは無い。むしろ冷暖房費がかかるとか掃除が面倒とかデメリットが生じる。今広い部屋が必要なら、買ってもいいかも。
国の借金が凄い事になっているので、チャラにするにはハイパーインフレ政策しかないという見方がある。その際は現金持ちが負け組みで、借金持ちが勝ち組である。
2005年2月 6日
日曜夕方の憂鬱
月曜日は自殺が多いらしい。日曜日に鬱がたまって月曜日に臨界点に達するのだとか。
日曜の夕方というと、「サザエさんが終わるときって憂鬱だよね」というネタが古くからある。サザエさんは、楽しい休日が終わってしまうことの象徴である。
ボクとしては、ちびまる子ちゃんの方が脅威である。CM前の画像などに「15th」の文字があるからだ。そうか、もう15年経ってしまったか。今週も成長しないボクだったが、15年前からも成長していないような気がするなぁと、その「15th」の文字を見ると思ってしまう。
10周年記念で過去のオープニングを繰り返していたときも脅威だったが、今年も地味に脅威を感じている。5年後には消えて無くなって欲しいと思う。
2005年1月21日
もはやバブル後ではない
竹中経済財政・郵政民営化担当相が、「もはやバブル後ではない」と述べたそうな。
戦後しか経験してないボクは、「もはや戦後ではない」という言葉を知っているが、それをどう捕らえたらいいか、感覚がつかめない。当時のヒトはどう思ったんだろうか。ボクの父は、当時15歳のはずだ。でも学生だとやっぱピンとこないだろうなぁ。ボクが学生時代に、「財テク」とか聞いてもピンとこなかったからなぁ。
まあ、とにかく終戦とかバブル崩壊とかで、過去の常識が通用しなくなってから、これからの常識で成長過程にいたるまでは10年ぐらいかかるってことかな。そんでまた50年ぐらい経ったら、今の常識も通用しなくなって先行き不透明になると。その頃のボクの世代は、80歳になっていて、頑固ジジイになって「今の世の中は・・・」とか「今の若いモンは・・・」とか言ってるのかな。その歳で常識が変わるのは大変そうだな。平均余命も長くなって90歳ぐらいまで生きて、成長に戻り始める頃(=どん底)で死亡。いやな世の中だ。
2005年1月15日
サムスンの純益1兆円超
サムスンの2004年の純利益が1兆円を超えた。
ボクの父は、ボクが学生の頃から、「日本がアメリカに追いつけ追い越せで、いつのまにか追い越しちゃったように、中国や韓国が日本に追いつけ追い越せで、いつか追い越す。」と言っていた。それが現実のものになってきた。
業界の浮き沈みについても、「若かった頃は造船とか重工業が花形産業だったが、今は違う。オマエが50、60になるとき、IT産業がどうなってるか。」 「だからといって、50、60になったときに何がいいかは分からん。オレが若かったときにはIT産業は存在すらしなかった。今は存在しない何かが台頭してくるだろう。」と言っていた。
ボクが50、60になるとき、サムスンはどうなっているだろうか。韓国はどうなるだろうか。IT産業はどうなるだろうか。それらはどうあれ、波に乗って人生をエンジョイしたい。
2004年12月28日
目標
今年の目標は、特に決めてなかったが、「カイシャが安定すること」が重要な年だった。そして、結果としては安定した。給料の遅配が3ヶ月ほどあったが、8月に正常になってからは遅配してないので安定していると言えるだろう。
来年の目標は年収を同業他社並にすることにしようか。
http://tenshoku.inte.co.jp/saishin/heikin/hei_003_02/index.html
か、欲を言えば
http://tenshoku.inte.co.jp/saishin/heikin/hei_003_05/index.html
だな。
情報処理試験の上位試験に合格するのもいちおう目標に入れておこう。